ちょっと思い出

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とても昔のことから最近のできごとまで、何も考えずに書いた雑文です。

魚釣り

小学生位のときから、魚を釣るということに熱中していました。学校が終わると近くの川に友達とハゼを釣りに行ったり、朝早く起きて海岸に(これもすぐ近くにある砂浜)キスを釣りに行ったりしていました。余りたくさん釣れた記憶が無いのですが、雨さえ降ってなければ寒い風の日も日差しの強い夏の日も釣りに行ってました。
たまに父親とニジマスを釣りに渓流に行ったり、船で沖釣り(確かメバルだったような…)もしました。このときは、両方とも結構釣れた記憶があります。
お小遣いを貯めて当時高価だったグラスファイバーの竿を買ったり、仕掛けなどは全て手作りで友達の分まで作ってあげたりしていました。

でも、高校に入った頃位から段々と遠ざかり、道具もほこりをかぶるようになってしまいました。最近、本当に久しぶりに波止に行ってみましたが、ろくろく準備もせずにでまかせの仕掛けで臨んだこともあってか、全く釣れませんでした。

プロレス

プロレスにハマッた頃がありました。

第1段階

第一段階は、アントニオ猪木やジャイアント馬場、ラッシャー木村らが活躍していた頃。毎週金曜の夜だった気がしますがテレビ放映は欠かさず見ていました。プロレスの本を買ってもらい、読みふけっていました。知り合いのお兄さんに足4の字やキーロックをかけられ、あまりの痛さに瞬間でギブアップしました。ドロップキックは余り効きませんでした。意外とヘッドロックが効きました。猫にフルネルソンやバックドロップをかけては、引っかかれていました。

第2段階

第二段階は、長州 力やマサ斉藤らの維新軍と猪木、藤波、藤原らの正規軍が全盛の頃。長州のファンで、これまた猫にラリアートしたりしましたが、全く効いていないようでした。プロレス雑誌は毎週購入、果ては東スポを駅まで買いに行き、頭の中はプロレスだらけ、という毎日でした。これほど熱中していたプロレスですが、長州 – 藤波 戦や藤原とのシングル戦のあたりを頂点に、プロレス熱はみるみる冷めていってしまったのです。

最近、知り合いにチケットを頂いたので、女子プロを見に行ってきました。横浜アリーナの2階で、割と良く見えました。最近はオープニングイベントで花火をあげたり、選手入場時に大音量の音楽を流したり照明にも凝ったりで、演出にも力が入っているのですね。試合の方は、第一試合のさくら えみに笑わしてもらい、メインイベントの中西 – 浜田戦は見ごたえありましたが、昔のように燃える(?)ことはありませんでした。それから極悪軍団(魔界?)が復活したのは良いのですが、タレント(?)として有名になったダンプ松本は加わらない方が良かった気がしました。(2003年5月)

BCL

これもまた結構流行りました(何の略かも忘却のかなたですが)。誕生日にねだりにねだってSonyのスカイセンサーという受信機を買ってもらい、日夜、北京放送やラジオオーストラリア等の日本語放送を聴いていました。ただ、自分の場合は放送内容には殆ど興味が無く、ベリカード欲しさに聞いていただけという感じでした。ですので、受信状態はまじめに書いたものの、感想などは適当に書いて、エアメールで送ってました。でも返信のエアメールが届いたり、きれいなベリカードが送られたりすると、とてもうれしくて、あー国際的だなー(?)などと感動したりしていました。スーパーカーの写真もそうですが、集めたベリカードは一体どこにいってしまったのでしょう。

スーパーカー

昔流行ったスーパーカー。ブームにまんまと乗り、カメラ片手に自転車であちこち撮影に行きました。近所にポルシェがあると聞けば、駆けつけてパチリ。どこそこの道路でカマロを見かけたと聞けばカメラを構えて待つものの、やはり通らず、がっかり。でも気長に待っていると色々と変わったクルマが通るもので、結構パチリしていました。最初はこういった仲間同士の情報交換で、スーパーカーとは言えない様な普通の外車まで撮ったりしてました。たまに近所のバイパス道をロータスヨーロッパなどが通ったときは、大喜びしてました。

そんなある日、スーパーカー仲間(?)が鈴鹿サーキットでスーパーカーフェスティバルなるイベントがあると言うので、わざわざ行ってきました。ブームの真っ最中だったので、大勢の人が集まっています。サーキットの駐車場でも、改造車やハーレー等が集まっていて、入る前から大興奮していました。サーキット内は、想像以上にたくさんのスーパーカーが集まっていて、しかもコースの中(の芝生の部分)まで入れて、カウンタックやミウラ、ディノ、ロータスヨーロッパ、ポルシェ930ターボ、トヨタ2000GT等々をごく近くで見れて、何だか異常に舞い上がって写真を撮りまくっていました。

そんなこんなで集めまくった写真は数100枚。一体どこに行ってしまったのでしょうか。今でもフェラーリやポルシェは見かけますが、ランボルギーニはどこにいるのでしょうか。あの情熱はどこにいってしまったのでしょうか....

テニス

中学に入学したときは、なぜかサッカー部に入ろうと強く思っていました。ですが、クラスでテニス部(軟式)に入る人が多かったので、とりあえず入部することにしてしまいました。

ところが、その練習量は予想をはるかに上回る本格的なもので、田舎の広い校庭をぐるぐる走ったり、すぐ近くに海があって砂浜があるので、延々と続く砂浜を走らされたり、腕立てをしたり腹筋したりダッシュをしたり素振りをしたり、しました。

このような訳で、一緒に入った新入部員はいつの間にか殆どいなくなってしまい、10人ほどになっていました。私も辞めたかったのですが、他に何かすることもなく、せっかく買ったテニスラケットももったいないので、そのまま続けていました。

そのせいか、市の大会では割と皆いい成績でした。市の新人戦で優勝したこともありました。3年の最後の県大会には天狗になって出場しましたが、3回戦位で敗退し、パートナー(ダブルスなので)が悪かったのだとお互いに思いつつ帰途につき、中学のテニス生活が終わりました。
 入学した高校にも軟式テニス部があったので入部しましたが、先輩とうまが合わず、いつの間にか全く参加することはなくなっていました。

社会人になってからはたまにオートテニスに行っては、遊びのつもりがいつの間にか本気になって汗だくで終わる、みたいなこともごくたまにしていましたが、最近はホントご無沙汰です。

ギター

中学生位の頃、頼んでもいないのに何故か親からフォークギターを買ってもらいました。しかたがないので一人で練習していたのですが、そのときはFどころかCもろくろく押さえられず、指先も痛くて2週間位であっさり手を切りました。

高校に入って、周りでも楽器を弾く人が多くなりました。下手者どうし集まった感じのバンドに入れてもらい、「フォーク」などをしておりました。ただ、このときはボーカル担当だけが突出してうまく、彼が愛想をつかして他のバンドに移ってから数日後に解散となりました。

大学入学後は、高中正義の真似をしたくて、バイトで貯めた大金を持ってヤマハのGS何とかという、高中と同じ(ですが、グレードは全然違う)ギターとグヤトーンのアンプを購入しました。しかしこれだけでは高中にはなれません。またしばらくバイトをして、BOSS(たぶん)のコンプレッサーとディストーション、コーラスを購入しました。おおっ!これで完璧です。クリソツです。音は。しかしテクが全く追いつかなさすぎで、高中は合っていないのかなと思い至りました。ところが、サンタナもジェフベックも、リッチーも合っていないようです。要するに、あまりエレキギターに向いていないようなのです。
という訳で、卒業してサラリーマンになってからはギターを弾く暇も無く、今では押入れの奥に飾ってあります。

プログラミング言語

学生時代

初めて自分でコンピュータというものを触ったのは、高校3年のときに買ったシャープのポケコンでした。言語はBASICでした。このポケコンは、1行しか表示できないので、幅5センチ程のロール紙にリストを印刷してはデバッグしていました。ゲームも画面ではなく、印刷しながらプレイするというものもありました。何を作ったのか記憶に無いのですが、このときにプログラミングのおもしろさやデバッグの難しさを実感したのでした。特にデバッグに関しては、何時間眺めていても正しいロジックのようなのに、人に見てもらうとすぐに誤りが分かったりして自己嫌悪に陥ったりしていました。

また、大学でPASCALという言語で再帰的手続きというアルゴリズムを知り、感動したりしました。

社会人になって

メーカー系のソフト会社に入り、企業内教育でCOBOLを経験しました。おお、COBOLって使いやすいなどと思いつつ、その後は1回も使う機会が無いままです。職場に配属後は、アセンブラとPL/Iでひたすら汎用機でのオンラインコントロール系のコーディングをしていました。このとき、データ中心アプローチや構造化プログラミングといった今では当たり前の考え方に触れたのです。余談ですが、配属当時はコーディング用紙にひたすらロジックを書き、何回かのチェックを受けて、何度も書き直して、やっと端末(PCではなくただのダム端末)でパンチ作業をします。ワープロが1フロアに1台、などという時代で、必須ツールはプラスチック製のテンプレートと大きな消しゴムでした。先輩の中には、汎用コンピュータに紙カードでプログラムを入力した経験のある人もいました。
世の中がCSSの方向に向かおうとWEBアプリケーション全盛になろうと、バブルとかも知らずに、ただただ汎用機の世界に閉じこもっていたのでした。

少し作業に余裕が出てきた頃、ちょっとWindowsのプログラミングでもやってみようかな、といった感じで、趣味でDelphi3.0を購入しました。当時のVBはランタイムが必要で抵抗があった事、学生時代に少しPASCALをかじった事、Cのソースは見ただけでめまいがした事、からDelphiを選択しました。使ってみてすぐに簡単なプログラム(メモ帳とか…)が作れて感激しました。その後は仕事関連の簡単なツールを作ったりしていましたが、段々と個人ユースのツール等も作り始め、GUIプログラミングのおもしろさ、難しさを実感、痛感中です。

パソコン

最初のPCは、プログラミング言語のところでも書いた通り、高校時代に買ったシャープのポケコンでしたが、WindowsのPC/AT互換PCについては、1995年初頭に、富士通の初代デスクパワーS(DX2、メモリ8M)を購入したのが初めてです。初代から付属ソフトは豊富でしたが、使ったのは一太郎くらいでしょうか。この一太郎で年賀状を作成したのですが、差込印刷が非常にとっても遅いので、16MBのSIMMを増設しました。当時はメモリの価格が急落する「直前」で、5万円弱もしました。しかし、差込印刷は驚くほど速くなり、その他のソフトの動作もキビキビし、大満足でした。

1年半ほどたち、Window95も使いたくなってきたので、そろそろ新しいマシンが欲しくなってきました。しかし、メーカー製のPCに乗り換えたのでは現在のパーツがもったいないという思いから、自作に踏みきりました。初めての自作PCは、Pentium100MHzに元々24MBあったメモリ+安くなった16MBのメモリを追加して作ったものです。FDDやHDD、CDROMドライブは元々のものを使いました。でもCPUを変更するとマザーボードの変更が必要だったり、結構新しいパーツが必要で、出費も想像以上です。ただCPUをDX2からPentiumにした事とメモリ増設の効果は素晴らしく、スピード的には大大満足でした。

しかし、また2年弱ほど後、ゲームのためにより速いCPUとビデオカードが欲しくなり、部品を交換しようと思い始めました。が、使用しているのマザーボードはPentium166Mhzまでしか対応していませんでした。そこで、MMX対応のマザーボード、MMX Pentium233MHz、メモリを16M×2、ビデオカードを購入し、組み立てました。OSは勿論最新OSであるWindows95です。ケースが小さめだったので苦労した記憶がありますが、OSの組み込みはそれ程のトラブルはありませんでした。Windows95のユーザインタフェースの変更やらゲーム(モトレーサー等)やらで遊んでいましたが、この頃流行だしたインターネットもやってみたくなり、外付けの28.8Kモデムを購入し、フリーのプロバイダ(画面の一部に常に広告が表示される)で遊んでいました。その内そのプロバイダが倒産し、後を引き継いだHi-HOにそのまま加入していました。当時はダイアルアップだった事と通信速度が遅かったため、しょっちゅうオフラインモードで見ていました。

その後、Windows98にアップグレードしたり、DVD-ROMドライブやMPEG2デコーダカードを増設したりしました。DVDのきれいな映像に大満足でした。

更に2年ほどたった2000年初頭、画像編集や動画編集をやりたくなり、速いCPUに替えようと考えましたが、やはりマザーボードが対応していないため、Cerlon700MHzにマザーボード(ASUS CUSL2)に、ATX対応のPCケース等を購入し、組み立てました。アクションゲームは余りしなくなったので、ビデオはマザーボード内臓のものをそのまま使いました。メモリはSDRAM256MBで、古いSIMMは箱の中で眠っていますが、早いとこ売ってしまえば良かったと後悔しています。

月日は流れ、2021年秋にPCが起動しづらくなり、新しく買うことにしました。自作はもう面倒になってしまい、当時安かったDELLのVostro 3681というデスクトップPCを購入しました。46,382円でした。CPUはCore i3-10100、メモリは8GB DDR4、HDDは256GB PCIe NVMe SSD、グラフィック内臓です。これにマウスとキーボードが付いてきました。(2022年現在の現役です)

プリンタ

最初はCanon の BJC-250J を使ていました。考えてみるとずいぶんと長持ちしたものです。以前は年賀状を印刷したり、せいぜい月に1回くらい交通機関の乗り換え案内のHPなどを印刷する程度でした。それが段々と仕事用のサンプルPOPや仕様書などの印刷が増えてきたせいで寿命となったのかもしれません。

ある土曜日に、月曜の打ち合わせに必要な書類を印刷しようと電源を入れると、アイドリングのジージーという音の途中でピッと音が鳴り、ランプが点滅するのみでプリンタが立ち上がらなくなってしまいました。休日でサポートセンターもお休みですし、Webサイトを検索しても、昔の機種ということもあるのか、ほとんど情報が集まりません。
ここはもう寿命と考えて買い換えることにしました。とは言っても、絶対に明日の日曜中には書類を印刷しておかないといけません。安売り店などを探す時間もなく、近所の量販店で Canon の IP4500 という機種を購入しました。
しかしこういうときに限って自転車の調子が悪く、歩いて持って帰りました。10分ほどの距離なのですが、結構重く、腕がつりそうになりながらようやく持ち帰りました。
早速梱包を解いてセットします。結構でかい。使っていたBJC-250Jをおろし、新しいIP4500を置くと、今まであったスペースがほとんど無くなってしまいました。ケーブルをつないでインクをセットし、パソコンにプリンタドライバをインストールします。1時間ほど掛かりました。インクヘッドの位置調整のテストプリントも順調に終わりました。少し時間が掛かったものの、めずらしく順調にセットアップが完了しました。
早速必要な文書ファイルを開き、印刷してみます。おお~っ!無茶苦茶速い!感動モンです。激速、、超速、スーパーカー並み、といっても過言ではない感じです。旧機種が遅すぎたせいかもですが…
さらに、思っていたより静かです。旧機種がうるさすぎたせいかも知れませんが…
 何はともあれ、これで年賀状も印刷できるというものです。買い置きしていたインクは無駄にはなりましたが、今までありがとう、BJC-250J。(2007/11記)

東日本大震災でケースの端が壊れてしまいましたが何とか印刷は出来ていた IP4500 でしたが、突然印刷できなくなりました。予備のインクが結構残っていたのに無駄になりました…考えてみたら8年か…長いようで短かった気がしてます。
で、とりあえず年賀状を作るのに必要なので、取り急ぎ当時安かった Canon の IP2700 を購入しました。IP4500 ほど高性能でも静かでも高速でも無いのですが、最近は印刷は年賀状くらいなので満足しています。(2015/10記)

キーボード

初めての高級キーボード

今までパソコンは最初の1台とノートPCを除いて、全て自作してきました。ですのでキーボードやマウス、ディスプレーなども好みのものを購入、接続して使っています。ディスプレーやマウスに関してはある程度こだわって選んできたつもりですが、キーボードは特に意識せず、1,000円前後のものを使ってきました。

あるとき秋葉原の家電量販店で時間が余っていたので、何のきなしにマウスやキーボードを触ってヒマをつぶしていました。そこで偶然、東プレやFILLCO、富士通のリベルタッチなどに触れてみて、今まで使っていたものとは全く違うタッチ感に感動し、開眼しました。
ですがそのときは、へ~値段も全然高いけどタッチも全然違うもんだな~などと思いながら、連れの買い物が終わるのを待って帰宅しました。

それから2ヶ月ほど経ち、あのタッチ感がどうにも忘れられずにいるところに、使っていたIBMのキーボード(2,000円くらいのモノ)が突然認識しなくなりました。WindowsXPでユーザープロファイルを指定しているため立ち上げ時にパスワードを入力しなければいけないのですが、キー入力ができないのではどうしようもありません。そこで先日の家電量販店におもむき、色々と物色してみました。最初はFILLCOの黒軸のヤツでも買おうかな、などと考えていたのですが(これでも9,000円以上!当時はこの金額のキーボードが存在することすら頭にありませんでした)、東プレのも良いな、でも高いな、などとさんざん楽しく迷った挙句、富士通のリベルタッチというキーボードにしました。17,800円・・・2,3千円でも高級と考えていた当時、何をとち狂ったのか、気がつくと購入していました。

そして家に持ち帰り、USB接続し、PCを起動してみると、認識しません!
これは!!と再度USBケーブルを抜き差しすると、何故か今度は認識しました。ホッ。
この文章はリベルタッチで作成していますが、やはり打ちやすいです。割と打鍵音も静かです。なかなか良いです。これだけ出して買った甲斐があるというものです。あと10年くらいは使いたいものです。
色は白と黒があったので白い方にしたのですが、黒も良かったかも、などとは思いません。NumLockやCapsLockのLEDが中央にあるのは少しなじめませんが、また「Libertouch」のロゴがいまいちなフォントにも見えますが、すぐに慣れることでしょう。
もう少ししたら付属の重いキーや軽いキーなどとの付け替えも挑戦してみたいと思います。(2008/1記)

いまいちなフォントのLibertouch

リベ再び

しばらくはリベルタッチ(以降リベと略)でワクワクしながらプログラムを書いたり、ホームページを作ったり、Flashで脱出ゲームなどを作ったりしていたのですが、いつしか使わなくなってしまいました。なぜ使わなくなったのか、全く記憶に無いのですが。

それが、会社をリストラでクビになり、とりあえずまたWebサイトを作って何かしようと思い立ち、せっかくだから作業環境もできるだけ整えようと思いまして、そうだリベがあった、あれならタイプの生産性も上がるだろ…と思ってひっぱりだしました。と言っても本棚の上に置いてあったのを取っただけですが。
こんなに重かったっけ…などと思いつつ大きなビニール袋から出してみると、結構キーが汚れていたり、埃まみれになってました。まずは掃除からです。

キートップをひとつひとつ外してはウェットティッシュで拭いていきます。100個以上もキーがあるので結構時間が掛かります。キーを外す器具も付属してきたのですが、どこにあるのか不明なので、指で外していきます。そして外したあとの埃を掃除機で吸い取り、さらにふき取っていきます。
最後に全てのキーを元に戻して完成です。普通のキーは印字されているので戻し間違いは無いはずですが、スペースキーだけは上下にかなり迷いました。今でもこれでたぶんあってるんだろう程度の確信度合いです。3時間ほど掛かりました。夏の暑い午後のことでした。でもこのタイプ感…、久々の上質感です。ワクワクです。(^^ゞ

とりあえず夕食後、PCと接続してみました。認識しません。え?うそでしょ。元のキーボードをつなげてみると、入力できます。えーーーーー?壊れてる??あの午後の苦労は?無駄だったのか?
半パニックになりながら、いや待て。買った当初もあったよねこういうこと、とホームページを見てみると、書いてありました。半分日記状態のこのページに。
という訳で差し直してみたのですが、認識しません。ただ接続口を変えたり何回かやってみると、キー入力ができるときもあります。でもこれでは不安定で使いものにならないのではないか、と思いつつ、ビールタイムでタイムアップで翌日に持ち越すことになりました。

翌日も症状は変わりませんが、少しキー入力できる時間が長くなっているような気がします。10分くらいでできなくなるときもあれば1時間くらいは打てているときもあります。入力できなくなったらUSBの抜き差しをすると出来るようになります。これを繰り返します。
とりあえずネットで検索してみると、USBケーブルの修理方法が結構でてきます。USBケーブル内には4本の線が通っていてそれぞれを結ぶことで別のソケットに接続できるらしいことも分かってきました。怪しいのはキーボードのUSBソケットと思われるので、下図のように、別のUSBケーブルとキーボードのUSBケーブルをそれぞれ途中で切断し、それぞれを結んで修理する、という方法を思いつきました。これなら不器用な自分でもできそうです。

ただうちには余っているUSBケーブルがありません。ですので100均で購入してきました。
まずは100均で買ってきたケーブルの途中でハサミでパッチンします。おお、中には情報通りに4本の線があります。
ですが、しかし細い。想像以上の細さです。
しばらく線の細さをじっと見つめ、そして諦めます。自分には無理だと。
今は不安定でも接続できることもあります。それが修理によって接続不可になった場合を考えると、この上質なタッチ感を考えると、ふみきれませんでした。

という訳で、現在はキー入力できなくなったらUSBの抜き差し、を繰り返しています。なかなかの非生産性とは思いますので、たまにUSBケーブルの切断口を見て修理できるかなー、いややっぱ無理だわ、を繰り返してます。(2022年8月記)

花火

実家のある小田原では、毎年夏に酒匂川で花火大会が開かれます。
社会人になって独り暮らしをしており、お盆の時期は帰省するのですが、花火の日とは2,3週間くらい合わなかったので、なかなか見ることができませんでした。ところがその年は何かで延期になったらしく、家族で見に行ってみました。屋台などの出店があり、結構人も集まっていていい雰囲気です。
花火の発射する場所から割りと近くに座って見ていました。今まではずっと遠くからしか打ち上げ花火というものを見たことが無かったのですが、今回初めて近くで見ることができました。

始まる前までは、田舎の花火大会とバカにしていました。しかしスミマセン花火の主催者さん、みくびっていました。最初に上がったときは、恥ずかしながら鳥肌が立ちました。これほどの迫力とは…。

かなりの時間、みとれていて、気が付くといつのまにか家族とはぐれていて、屋台で買ったビールを飲みつつ一人川原にゴロンとなって見ていました。さすがにちょっと退屈になってきたので、川原の上の道路をぼんやりと歩いていると、姉夫妻と出会いました。私の中学時代の友人がいるとのことで、案内されて行ってみました。

おぉ!懐かしい顔です。隣に座って、思い出話をしていると、ばかでかい紙コップにたっぷりと焼酎のウーロン割りを作ってくれたので、仕方がないのでがぶ飲みしました。久々に会った懐かしさもあったのでしょう。しかし、そのウーロン割りが約5対5の割りとは後で知りました。ちょっとかなり酔っ払って、花火大会も無事済んで、家族と帰途につきました。一緒だったはずです。確かに。途中までは。しかしふと気づくと、一人で暗い夜道を歩いていました。記憶はここまでで、どこをどう歩いたのか分かりませんが、翌朝自分の布団の中で目覚めました。かなり頭が痛いです。顔がむくんでいるのが鏡を見なくても分かります。

家族が言うには、途中ではぐれてかなり酔ってたみたいだし心配したとのこと。ゴメン、でも悪いの懐かしの悪友のアイツなんです。本当に。

運動会

会社の運動会で「主将」をしたことがあります。主将とは、運動会の各チームの最高責任者 兼 全ての雑務をこなす人 のことです。主将の下に、「団長」とか「補佐」とかいった役割の人も数人割り当てられるのですが、ほぼ全ての人は客先に常駐していたり出張していたりしており、連絡もおぼつかない状態でまったく当てにならないことがすぐ分かりました。

やる事はゴマンとありました。まず、運動会の各種目の選手を決めます。最初は、やっぱりリレーには足の速い若者を、とか綱引きには体のでかい奴、などと選ぼうとしていましたが、誰が足が速くて体がでかいか、情報が全然集まりません。各職場の管理職や庶務の担当者も良く分かっておらず、そもそも運動会などに時間を割くより自分のプロジェクトの遅れを何とかしたいと思っている人ばかりだからどうにもなりません。最後はえいやで、名簿から力の強そうな名前だ、とか何とか適当に選手を決めます。

そして今度は、決めた選手に運動会に出てもらわなければなりません。管理職以上は別として、社員は会社の運動会なんて全然行きたくないのです。そんな暇があったら日頃の睡眠不足を解消したいはずです。そこを何とか出てもらわなければなりません。というわけで、任命状を作成する事にしました。電話での口頭やメールで連絡するよりも、かしこまった任命状の方が重みが出て効果があるのでは、と思ったからです。ところがこの任命状作り、想像以上に大変でした。任命状の大半は決まりきった文章なのですが、種目名と名前は変えなければなりません。この名前をパソコンで打っていく、という作業で苦労したのです。人の名前は千差万別。それを間違いなく入力しなければなりません。一字でも間違えたら逆効果だし、期待通りに日本語変換されることはまれで、ほぼ一字一字を入力していく必要がありました。名前と種目の部分を差込み印刷するのですが、通常の印刷と比べて差込み印刷はひじょーっに遅い(当時はメモリもまだ高く、増設もままならなかったのです)。この作業で3日ほど終電で帰宅するはめになりました…。

また、運動会の始めに、各チームの選手宣誓の儀式があるのですが、宣誓をする人(部長クラスの方が行います)に特別な衣装を着せて場を盛り上げる、という慣例があり、我がチームは赤集団ということで、赤鬼の衣装を手作りしました(殆どは庶務担当の女性や家内に頼みましたが)。

当日配布するお菓子や日本酒、ビール等も準備しておかなければなりません。大きめの段ボール3箱分の大量のお菓子とビールを2箱(1箱は350ml24本)、日本酒の一升瓶を3本用意しました。前日の土曜日1日掛かって買い出しに行き、翌日まで自宅に保存しました。
当日は車で迎えに来てもらい、何とかトランクや後席に荷物を積み込みます。駐車場からグラウンドまでがまた結構あり、3回ほど往復し、これでもう2種目くらい出場した気分です。

無事に開会式や選手宣誓も終わり、これで後は終わったあとの片付けくらいだ、と思っていたら甘すぎました。任命状をあれほど苦労して作ったのに、任命した選手が欠席する種目が続出したのです。他の選手にあわててお願いして出てもらったりしましたが、それでも足りなかったり嫌がったりする種目には、自分が出場しなければなりません。障害物競走やリレー、綱引きなど、半分近い種目に出ました…。
終わったあとは、もうへろへろのボロボロでした。運動会の成績は、4チーム中4位でした。汗とほこりにまみれた顔を洗い、着替えをすませると、重たい足をひきづって帰宅の途につきました。何だか中途半端な達成感と疲労感につつまれつつ、残り物のぬるいビールを少し飲んで早めに寝ました。

翌日、使用したはちまきを洗濯して事務局に返さなければならないので、近くのクリーニング屋に100本くらいを持って行きました。予算もそう大してある訳ではないので、値引きの交渉をしましたが、はちまきは単価が低い割りにアイロンがけが大変な作業になるらしく、あまりいい顔をされません。結局Yシャツの値段以上でお願いをしました。

最後に、チームの役員で飲み会(お疲れさん会)を開きました。予算の残りの中で何とか済みました。あー、疲れた。
不況のため、この年の運動会が最後となりました。復活する事はもうおそらく無いことでしょう。あの洗濯したはちまきは、まだどこかの倉庫の中で出番を待っているのでしょうか。

Midi

大昔、音楽ツクール95+というパソコンのツールで Midi を作ることにはまっていた時期が数日間ほどありました。結局、制作したオリジナルの作品は、曲も曲名もヘボくて変テコなこの2曲だけでした…..(mp3に変換してあります)
1曲め(一人手酌で呑む酒は)
2曲め(みちさく)

危険なダイエット

「何も食べないダイエット」をしていた経験があります。と言いますか仕事でせざるを得なかったと言いますか…

朝は食べないか、せいぜい牛乳1本くらいです。昼も食べないか、たまにそばなどの麺類をいただきます。夜も食べないか、たまにコンビニの弁当を食します。そしてほぼ毎日徹夜なので、夜中にチョコレートなどのお菓子を1個か2個食べます。このような生活を2ヶ月ほど続けていた時期がありました。これはさすがに、劇的にやせます。70Kgくらいだった体重が55Kgになりました。しかし、体はだるくなり、頭もはっきりしなくなったり妙に冴えたり(徹夜続きだったせいもありますが)、精神的に少し危険な状態になりかけたりもしました。

その後、少しまともに食事がとれ、睡眠もとれる環境に変わったのですが、驚くくらいに体調が良くなりました。やはり食事や睡眠はきちんととらないとあかん、という事を実感した経験となりました。

冬でも冷房

これもあるお客様のところで常駐作業をしていたときの話です。コンピュータ・ルームは年中、空調で一定の温度を保っていますが、開発作業の部屋は冬は暖房が普通です。

ですが、この冬は違いました。開発期限は何が何でも、石にかじりついても、猫の手を借りても、どんな悪さをしても良いから絶対に絶対にぜーったいに守らなければならない開発でした。

広くて広くて、席が「がらがら」でしょうが無かった場所に、あーっという間に人がなだれ込んできて、通常5人で一島の机に8人も押し込まれました。夜中もこうこうと明かりが付けられ、それぞれのパソコンはほぼ24時間スイッチが入ったままで、人の怒号や熱気、照明やパソコンの熱で、いつも30度前後を保っていました。担当者は死にそうな顔で、ユーザーの管理職は怒気で顔を赤らめ、ベンダーの管理職は泣きそうな顔で、暑さに耐えていました。あるいはあまりの緊張感と疲労と眠気で暑さを感じていなかったかもしれません。

このような状況は夏が過ぎ、秋が過ぎ、寒い冬を迎えても変わることはありません。むしろ状況は悪化しているような気がしています。そういうわけで、冬でも暖房ではなく、冷房がかかった心地良い部屋で作業にいそしんでいたのでした。

結局このプロジェクトは大きな問題点を抱えたままカットオーバーし、世に大きく知られることとなりました。とほほ。

網膜剥離(もうまくはくり)1

2004年9月のとある日、左眼から見る景色が白くかすんでいることに気づきました。
実は昨年の同じ頃に同様の症状が起き、そのときは網膜裂孔と診断され、レーザー凝固の治療を受けました。網膜に穴が開き、そこから出血してその血で白くにごって見えるので、レーザーで穴を癒着してふさぐ、という治療でした。

今回も同じ原因かなと思い、眼科を受診したのですが、穴は開いていないとのことです。なぜ白っぽくかすむのか分からないまま、定期的に診察を受けていましたが、11月のある日、突然左眼の下半分が何かもやっとしたまくで覆われたような感じで殆ど見えなくなってしまいました。いつもの眼科を受診すると、網膜剥離と診断され、都内の病院を紹介されました。とにかくすぐ行け、直行しろ、との事なので、紹介状を持ってまっすぐ病院に向かいました。緊急外来扱いですぐに見てもらい、すぐに入院、と宣告されました。

入院前の検査のレントゲン撮影、心電図、採尿、採血を、広い病院内をあちこち移動しながらこなし、最後に入院手続きをして眼科外来に戻り、眼底写真を何枚も何枚も撮り、入院と言われたのに外来の先生は更に診察し、正常な右目に瞳孔を広げる目薬を差しながら診察せず、何だかわけが分からないまま眼科病棟に連れて行かれました。

一息つく間もなく担当の医師二人の診察を受け、手術が必要と宣告されます。なんとなく感じていたのでそれほど驚かずに説明を聞いていました。現在は眼内の出血がひどいので、明朝、再度診察してから手術方法、手術日を相談することになりました。病室に戻り、ようやくベッドで一息つけました。もう夕方の5時半。仕事でもないのに、今日は朝から忙しかったでした。

18時少し過ぎに、夕食が運ばれてきました。夕食後に家族に連絡し、明日、着替え等の入院に必要なものを持ってきてもらうことにして、朝出かけたときのままのワイシャツの服でベッドに横になり、眠りました。

翌日の朝の診察後、今日手術をする旨説明がありました。家族と共に手術内容の説明を受けます。バックリングという、眼の周りをベルトのようなもので巻き、その圧力で網膜を復元する方法を基本的に採り、状況次第で硝子体をすべて抜き、オイルと入れ替える方法も採りうる旨を説明されます。失敗の可能性や術後の症状などを聞き、了承します。手術室の予約状況を確認するのでとりあえず部屋で待機しておくように言われて病室に戻ります。とりあえずパジャマに着替えていると、看護士さんがたくさん来て、手術室が空いているのでこれから手術をする、と言われます。おおっ、今日もまた朝から急展開です。看護士さん達がいれかわりたちかわりやって来て、あわただしく体温や血圧をはかり、点滴をされます。麻酔の注射の痛みを軽減するシールを眼の下に貼られ、瞳孔を開く目薬を何回も差し、手術同意書にサインをし、車椅子に乗せられて手術室に向かいます。時間は午前10時半。手術室前のドアで何やら手術室の看護士と手続きをした後に手術室に入り、手術台にあがります。

網膜剥離2

手術台に横たわるとすぐに体中に心電図のシールを貼られ、左腕に定期的に動作する血圧測定の器具を巻かれます。頭を固定され、麻酔の太い注射を眼の下の骨に突き刺されました。注射針をさすときにはそれほど痛みを感じませんでしたが、麻酔液を注入するときにいやーな感覚が眼の周りに充満するのが少しつらかったでした。

執刀担当医が麻酔の効き具合を確認し、手術が始まります。局所麻酔なので意識ははっきりとしていますが、何をどうされているのかはまるでわかりません。ただ、執刀医が若い方の医師に「こういうのを見る機会も余り無いだろう」とか、執刀を手伝わせているらしく、「違う!もっと手前!」などといった話し声は普通に聞こえます。途中、麻酔が切れ掛かり、追加注入をされたり、筋肉の部分に若干痛みを感じたりはしたものの、特に不快感はなく、何だかあっという間に終了しました。
終了後、自分で立って車椅子に座り、簡単に手術の経緯の説明を受けます。バックリングをし、若干のガスを注入して網膜を元の位置に復元したとの事です。

病室に戻ると、ちょうど昼食が運ばれてきました。正味1時間半ほどの手術だったようです。麻酔が効いているのか痛みは殆ど無く、昼食をとります。手術直後なのに、食欲は(かなり)ありました。

昼食後に表に出て一服して戻る頃あたりから若干痛みを感じ始め、病室のベッドで休んでいると痛みが増してきました。看護士さんに連絡して痛み止めをもらって飲みますが、余り効き目がないようです。やっぱり手術をしたんだなーなどとぼんやりと考えつつしばらく横たわっていましたが、夕食の頃にはだいぶ楽になってきました。痛み止めのせいかとも思いましたが、消灯時間を過ぎても痛みがぶりかえさないので、ほっとしながら眠りにつきました。忙しかった入院2日目の手術日も、ようやく終わりました。(私の場合は普通に寝てもOKだったのですが、網膜のはがれ方や手術方法によっては、夜うつぶせで寝ないといけない、などの制限がある場合もあるようです)

網膜剥離3

手術の翌日からは、眼球を動かすと少しごろっとした感じで鈍い軽い痛みを感じますが、その他には特別な症状はありません。食事もまずい訳ではありませんし、それどころか日によっては結構なごちそうが出るときもあります。お願いすれば洗髪もしてくれますし、眼に水がつかないように注意しながらですが、お風呂にも自由に入れます(結構広い浴室です!)。点眼や回診の時間を避ければタバコも一服できます。21時消灯ですが、イヤホンを使ってテレビを見ることはできます。うーん、もっともっと苦しむものだと覚悟していたのですが、なかなか、もしかしたら家にいるときよりも快適です。

手術後4日目に眼帯を外されました。初めて手術後の左目を鏡で見たのですが、予想以上にひどい外見です。まるでお岩さんか壊れかけたときのターミネーターの眼です。白目の部分は全て赤黒く変色し、眼の下と左の箇所は内出血で赤黒くなっています。なかなかの迫力です。すれ違う人はほとんど振り向いてくれます。外出時はしばらく眼帯が必要なようです。ただ、痛みはほぼ無くなっています。

ちなみに私は4人部屋だったのですが、眼科というのは結構入退院のスパンが短く、白内障で手術する人などは、ほとんど1泊2日で退院しますので、結構入れ替わりが激しいのです。その白内障で入院してきた方のいびきに参ってしまった夜がありました。サラリーマンの管理職らしいその男性は、日ごろの疲れからか消灯時間の1時間後には眠ってしまったようで、その瞬間から、「ぐうぉーう、がぐうぉーん」などといびきをしはじめました。そして、そのものすごい音量と予測不可能な発声パターンに、とてもなかなか眠りにつくことは困難な状況でした。「ぶぐあうぉー、ぐあおーーーんむ...ばふぉーーぐん」などと最大音量が続いた後、しばらく収まったので、さてこれで眠れるか、とまどろみかけました。と、次の瞬間、「ぷひゃーーほ、ぷひゃーほぷーぐーおん、ぴゃーほーん」などと予想だにしないいびき音が響き渡りました。ったくもー。で、病室から少し離れたナースセンターにも聞こえたらしく、看護士さんもときどき来ては起こして、「大丈夫ですか?」などと声をかけるとその人は「え?何が?」などと答え、看護士さんが「いびきがすごかったですけど」と言うと、「あ..すみません」などと答えていましたが、その後約3分ほどでまた大音響が響き渡ります。今まで、学生時代の合宿や大学のゼミの旅行、社内旅行、徹夜で仕事、等々で雑魚寝をしたり同室になったりして、いびきのすごい環境でも何とか眠ることができたのですが、今回はNo1です。あの豊かな音量、予測不可能な発声パターン、更に豪快な寝返り時のベッドのきしみ音。それでもいつの間にか眠っていましたが、よく眠れたものだと自分をほめてあげたいです。翌日、その患者さんはすがすがしい顔で退院されていきました。

網膜剥離4

いびきで悩まされた一晩を除いてなかなか快適な入院生活も、もう終わりです。手術して1週間で退院しました。その間、同室のSさんには大変お世話になりました。Sさんは、今年(2004年)になって入院(手術)が5回目というベテランです。両眼ともに網膜剥離となり、さらに再手術もあったそうです。でもとても明るい方です。洗髪や入浴の方法、病院の売店や喫煙場所、それぞれのすいている時間帯、回診の時間帯(ベッドにいないといけない)、などなど(頼みもしないのに)色々と教えていただきました。また、ほとんど全ての看護士さんと仲良しみたいで、あの人は厳しいからおとなしく対応するとか、あのこは2年目なので頼みごとをしやすい、など(これも頼みもしないのに)アドバイスをいただきました。本当に色々とお世話になりました。

さて退院当日、パジャマから普段着に着替え、一緒に退院する患者さん7,8人と迎えに来てくれた同居人と共に、退院に関する説明を受けました(そのとき私はトイレにいたため、途中から参加しました)。説明が終わり、看護士さんやSさんに挨拶をし、眼科病棟を後にしました。外来で目薬を受け取り、入院、手術代を支払い、病院を後にしました。晩秋にしては暖かな日差しの中、すがすがしい感じと、なぜか妙に寂しい気持ちで駅に向かいました。

退院翌日から仕事に戻りました(戻らされました)。職場でうっとうしくて眼帯を外していると、お岩さんか壊れかけたときのターミネーターのような眼に、みな驚き、同情してくれました。先輩のFさんだけは、気になるから眼帯してるよう、忠告されました。いい人なのですが、厳しい人です...

週に1回通院しているのですが、家から片道1時間かかる上、常にものすごい混みようなので、丸1日かかってしまいます。診察前の視力検査で1時間ほど待ち、診察に2~3時間ほど、眼底写真などの検査がある場合はさらに1時間ほど待ちます。診察や検査は10分ほどで終わります。さらに診察料の支払い、目薬が出る場合は調合待ちでそれぞれ30分ほど待ちます。えーと計算すると、家をでて帰ってくるまで最大で8時間半。朝の7時半ころに出て、帰ってくるのが16時。もっと早い日もあるのですが、通院日を会社が休日の土曜日にしているせいもあるかもしれませんが、それにしても混みすぎです...たまにいらだって大声で文句を言う患者さんもいたりするのですが、その気持ちも分からなくもありません。

網膜剥離5

手術から半年ほど経ちました。手術した左眼は相変わらずぼやけて見えます。近視でぼやける感じと違って、何といいますか、少しずれて見える感じです(これじゃ分からないと思いますが、表現しづらい感覚です)。白く濁ってもいますし、飛蚊症もあります。めがねをしていても文字は読みづらいです。ものの輪郭は分かります。ほとんど右目だけでの生活ですが、やはり遠近感が乏しくなる感じです。何かをさっととろうとしたときにとれないなどの不便さがあります。パソコンでこまかい文字を追いながら作業をしていると急に見えにくくなったりして、集中力が続かないときもあります。

今は3ヶ月ほどの間隔で通院していますが、医者はもう少し視力がでるはず、と言います。手術の結果は良好で、術後の経過も問題ないそうです。半年以上経ってから回復する例もあるそうなので、期待しつつも落ちこむときもありますが、すぐに気を取り直して仕事を片付けないと、今日もまた終電 or 徹夜になります。(^_^;

最後に、私の場合は強度の近視が原因らしいのですが、糖尿病や頭や目付近への強い衝撃も原因になりうるそうです。パソコン等でのこまかい作業は直接の原因にはならないそうですが、近視が進むと発症の可能性は高まります。結構不便ですので、少しでも異常を感じたら、早めに眼科を受診するようにしましょう。

ADSL回線1

突然、ADSLで接続していたインターネットが使えなくなりました。2006年6月の終わりころのことです。一体どうしたのだろうと、あせりました。

最初に原因として考えたのが Skype でした。仕事の取引先の方から、これから色々と連絡しあう事柄が増えるので Skype を導入して利用しよう、という案内のメールが来たのです。これが6/29(木)のお昼ごろでした。なんじゃ Skype というのは、と言うことで、早速Webサイトで調べてみました。そして、P2PのIP電話システムらしいこと、複数人で電話会議やテレビ電話もできるらしいこと、メジャーなアプリケーションであること、などが分かりました。

まあ安心そうなので、早速ダウンロードをしてインストールしました。インストールは順調に終了しました。しかしユーザー登録のところでエラーが出て、登録できません。これはうちのファイアーウォールかルーターの設定がまずいのかと思い、色々と(かなり)いじくったのですが、登録できません。そんなこんなのタイミングでインターネットの接続ができなくなったので、こりゃ Skype にやられたか、と思い、とりあえずアンインストールしました。アンインストールは正常に終わりました。しかし接続はできません。何やらネットワーク関連の設定を変えられたか、とも思い、Windowsの「システムの復元」でインストール前の状態まで戻しました。しかし、接続はできません。困った。当日(6/29)はここまででした。明日になればつながっているかも知れないとのはかない希望をいだきつつ。

ADSL回線2

昨日は、明日になればつながるようになっているかも知れない、との期待もかすかにありましたが、そうは問屋がおろしませんでした。当然ですが。少し冷静になって、PCから自分に、そしてモデムに対してpingをしてみました。応答があります。モデムのツールでモデムからPCにpingをしましたがこれも通ります。LANは正常で、ADSLが障害となっているようです。

というわけで、今日(6/30(金))はインターネットプロバイダ(hi-ho)に連絡をしてみました。サポートセンターの電話はすぐにつながり、回線障害の経緯を説明したところ、ADSL接続会社に調査を依頼する事となりました。結果は今日中か、土日をはさんで月曜に分かるとのことでした。しかし今日は連絡がありませんでした。

それにしても、インターネットにつながっていないと言うことがこれほど不便だとは思ってもみませんでした。プログラムを作っていてちょっと分からないところや、出張時の電車の乗り換えや天気予報を調べたり、金融機関の口座の確認や振込み/振替などや、メールの送受信など、いかにネットに依存しているかが良く分かりました。

ADSL回線3

土日はADSL接続会社も休みと思っていましたが、日曜(7/2)の午後に電話がかかってきました。担当者の方の言われる通りに、ADSLモデムとNTTのモジュラージャックをスプリッタ経由なしで接続したり、ケーブルを替えたり、モデムの初期化をしたり、ラジオや電子レンジなどのノイズが入る可能性のある機器の確認をしたり、光ファイバーの導入やNTT以外の電話会社との契約状況などの質問に答えたりしましたが、原因の特定には至りませんでした。うちはマンションなので、MDFまわりの工事状況の話もでましたが、今日は日曜なので管理人さんがお休みで確認できません。結局、モデムを交換する方向で話は終了となりました。来週の水曜か木曜に到着する予定だそうです。

夕方出かけようとすると、日曜なのに管理人さんがいました。休日出勤だったようです。そこで電話の工事の話を聞いたところ、昨日工事があったとのこと。昨日では関係ないなと思っていたら、いやおとといだったかも、いや木曜だったかな、と言います。少し年をとっている方なのであいまいですが、可能性はでてきました。そこで、インターネットに接続できない、ADSLが接続できないと言うと、明日マンションの管理会社に確認する、と約束してくれました。

翌日の月曜(6/3)は管理人さんと会わずじまいでしたが、何も連絡はありませんでした。当然接続もされていません。
火曜日(6/4)の朝に管理人さんに聞くと、昨日は会社がお休みで連絡をとっていないそうで、今日連絡するとのこと。テレビの件ですよね、と言うので、いえインターネットです、ADSLです、と答えます。ほどなくマンションの管理会社の担当者から電話があり、テレビの件で何か不都合があるとのことですが、と切り出され、こりゃあかんわ~と思いつつ、インターネットです、ADSLです、と言うと、至急NTTに連絡して調べてもらうとのことです。するとほどなくNTTの担当者から自宅まで伺うとの連絡が入ります。今回は対応が早いです。30分ほどしてNTT(の関連会社)の担当者がこられ、少しみてもらいましたが、結局回線自体は問題が無い、モデムが疑わしい、との説明をされ、帰りました。

と、ほとんど入れ違いに宅急便が来ました。一日早いモデムの到着です。早速梱包をといて、全く同じ機種ですが新しいモデムと交換してみます。ADSLランプは…付いた!おおっやっぱりモデムが壊れていたのかあっ!!
その後、モデムに対してプロバイダの設定やらセキュリティの設定などを行い、Webサイトの閲覧、メールの送受信ができることを確認しました。さらに帯域調整をした(低速の)回線を元の高速回線に戻すよう依頼をしました。出張してくださったNTTの方に報告とお礼の連絡をしました。メールは200件ほど受信しましたが、180件くらいは迷惑メールでした。残りの20件ほどは小1時間ほどかけて処理しました。そして、モデムとケーブルが場違いにきれいになりました。

100円ショップ

ここ最近(2006年ころ書いてます)、生活雑貨などは100円ショップを利用することがとても多くなってきました。また、どこに行っても100円ショップがある感じです。
100円なのにとっても役にたっているもの、長持ちするモノがある反面、やっぱり安いだけのモノかと、納得 & 反省するものも多々あります。
以下は主な購入品の感想です。

■時計
割りと正確ですが、カチカチ音がうるさいです。目覚ましが本当に鳴るかが心配で2台運用などをするとカチカチの輪唱のようになり、ハンパなくうるさいです。
また、朝ベルが鳴ってるとき、ベルを止めるボタンを少し強めに押したら針が取れました。

■割りばし
80膳も入っていてお得な感じです。別の店では100膳のものもありました。ただ、割るときに失敗する可能性が少し高い気もします。

■歯ブラシつるし(と言うのか、鏡にペタッと貼ってはさんでおけるもの)
10年くらい使っています。

■はさみ
普通の紙紙など用に。切れ味はそこそこです。

■めがね用などの小さいマイナスドライバ8本セット
めがね用でしか使ってません。力を入れないので先端がつぶれたりすることが無く、永久に使えそうな気がしています。8本セットなのですが、1本しか使ったことがありません。

■花瓶、植木鉢
これはおしゃれ!というものはほとんど見当たらないのですが、普通な感じのものは探せば見つかります。

■懐中電灯
スイッチが壊れやすくて、電球の接触もよくないようです。

■乾電池
減り方が早い気がします。

■食器洗いスポンジ
4枚入りのもの。何だか薄くてしょぼいです。。一応洗えてはいるのですが。
これに関してはスーパーやドラッグストアの方がお得な気がしています。

■A4の透明ブリーフケース
長持ちはしているのですが、近くのスーパーで80円くらいで売っていました。

■詰め替え用のシャンプーなどを容器に入れるじょうごみたいなもの
最近の詰め替え用の容器はうまく出来ていて、直接入れやすいように工夫がされているので、まだ1回も使ってません。

■デジカメの液晶保護シート
電子辞書用の大きいのを切って使ってます。9回くらい使えます。
今はスマホなので使ってません。

はえとり紙

最近、ホームセンターなどで「はえとり紙」を見かけることが多くなりました。はえとり紙と言えば、昔まだ子供だったころ、夏休みなどに母方の田舎に遊びに行くと、天井からぶらさがっていたことを思い出します。そして一度それに頭をくっつけてしまったことも思い出します。それはそれは強力な粘着力で、どうやっても髪の毛からはがれてくれませんでした。どうやってはがしたのかは憶えていませんが、はがした後も髪が粘土のようにべたっとしていたこと、何度かシャンプーで洗ってもなかなか完全には取れなかったことは記憶に残っています。

とんまでまぬけな思い出はさておき、最近、はえや蚊ではない小さな虫が部屋に入ってくるようになりました。最初は、むーしむしのーーー!(ゴームゴムのーーー調)などと言いながら手でつかまえていたのですが、あまりに効率が悪いため、また100円ショップでも売られていたので、はえとり紙を買って付けてみました。最初はあまりとれなかったのですが、一匹くっつくとどんどん取れるようになりました。

しかしふと考えたのですが、このはえとり紙というもの、虫にとっては結構残酷な装置なのではないでしょうか。手でつぶされたり殺虫剤でならほぼ即死でしょうが、これにくっつくと、生きたまま何も食べられず、何も飲めず、どこにも行けず、完全に自由を失ってしまうのです。自分がある日部屋の壁に手がぴたっとくっついてしまい、声も出せず、連絡も一切とれず、人もやってこない状況になったとしたら、これは悲惨な状態です。これを解決するために、最近では毎日はえとり紙に殺虫剤をまいているのですが、粘着力が落ちないか少し心配です。

潮干狩り

久しぶりに潮干狩りに行ってきました。学生時代の友人と、車で木更津まで出掛けたのですが、いかに道路が混んでたか、どれだけトイレを探し回ったか、駐車スペースをいかに探し回ったか、何回道を間違えたか、誰のせいで間違ったかという事でけんかになったこと、等々の、到着までの道程は、長くなるしそれほど面白くないので記しません。

なにはともあれ、潮干狩り自体は想像以上に楽しかったのです。
行く前は、何を今さらって感じで、疲れるだけだしって感じで、パチンコでもした方がましだって感じだったのですが…
到着後も妙な格好の赤い橋を渡らなければならないし(風が強くて高所恐怖症の私はこの高い橋がとても怖かった)、人がとにかくたくさんいて歩くのにも苦労するし、ゴムサンダルが足の指の間にくい込んで痛いしで、さんざんだったのですが。
でもやってみると、これがとってもおもしろい。
最初はこんなに人がいちゃあ、貝もすっからかんだろうと話していたのですが、どっこい、貝さんはまだまだたくさんいたのですねえ。だだっぴろい砂浜というか泥浜を色々と掘っていると、全然いないところや、数はたくさんいるけど小粒のものだらけのところや、大きめな貝が集まっているところ(ラッキー)、赤貝やあおやぎがいる場所など、さまざまです。熊手で砂を掘るときに、カチャっと貝の手ごたえが感じられるのも、釣りのウキがぴくっといったときの感じと少し似ていて楽しいのです。足が痛いのでサンダルを脱ぎ、素足で生暖かい砂の上を歩くのも気持ちが良いのです。迷子の放送がひっきりなしに流れるのも慣れると心地よいです。

という訳で、すっかり童心に帰って楽しんだ一日でした。帰りにどれだけ道路が混んだか、有料道路を通るか通らないかで口論になったか、晩飯を何にするかでひともんちゃくあったか、等々は記しません。

最後に、次回行くときの必須アイテムを書いておきます。
服装:半そで(又は簡単にまくれる)シャツ、半ズボン(又はひざ位までめくれるズボン)、帽子(日差しが強いときは絶対に必須)、足が痛くならないサンダル。
道具:熊手(手でも掘れるがだんだん痛くなる)、網(泥が落ちる程度の網目のもの)、ザル(あると便利)、クーラー(電車で行く場合はあった方が便利)、ペットボトル(海水を持ち帰る。クーラーに入れる場合は必要ない)

携帯電話

2000年ころから携帯電話を使っています。最初は、知り合いが「今どき携帯くらい持ちなさいよ」と言いながら勝手に買ってきた TU-KA のプリペイド式の携帯電話が始まりでした。プリペイド式とは、料金を前払いで支払う方式で、プリペイドカードというものを買って登録した分だけ通話やメールができる、というものです。

一定間隔でカードを登録するのは面倒でしたが、基本料金がかからず、通話料は割高ですが、発信することが余りなくメールで済ませることが多いため、リーズナブルではありましたので、何となく使い続けてきました。
それが、2007年の初めくらいに、TU-KA が2008年3月で終了、というニュースを知りました。で、同じ KDDI グループの au に携帯端末代無料で移行できるらしいのですが、その当時は3万円くらいあった登録済みの残高は au には移行できなかったため、しばらくはなるべくこちらから発信するように使って残高を減らすようにしていました。
 そんな折、移行時に残高がカードで返還されるように方針が変更となったとのニュースを知りました。au のぷりぺいどサービスは TU-KA と違ってEメールができないこと、センター留守録もできず、携帯端末の簡易留守録のみ、ということなので、ソフトバンクのホワイトプランにしようかかなり迷いました。ですが、残高が結構残っていること、ソフトバンクは電波が不安定(当時)でつながりにくい、あるいは切れやすい、という噂を耳にしたこと(当時)、また現在使っている端末もバッテリーの持ちが悪くなってきて、さらに通話中にやたらとよく切れるようになってきたため、au に移行することにしました。

2007年5月に変更しましたが、やはり新しい端末は機能豊富です。薄いしきれいだし、かわいい感じ?って感じ?うれしい?って感じ?とはしゃいだりもしました。ただ、前のものよりは少しヤワな感じかなって感じ??
(2007/6記)
2007/8追記:落としました。自転車からコンクリート道に。壊れはしませんでしたが、傷が少々。悲しいものです。
2007/10追記:また落としました。今度はウラのバッテリーも飛び出てしまいました。適当にはめ込んだら無事に動作はしました。傷はまた増えました。悲しいです。

携帯電話(ようやくスマホへ、楽天モバイルへ)

2020年の暮れごろに au からプリペイドサービス終了のお知らせの封書が届きました。当初は一緒に入っていたパンフレットに記載されていた、月千円程度で無料通話も付く VKプランS と無料で交換できるガラケーにしようかと考えていましたが、2021年の1月ごろ、カミさんがテレビのCMを見て楽天も良いかも、などと言い出しました。Rakuten UN-LIMIT VI というプランを調べてみて、月1GBまで無料、3GBまで980円+税などのプランらしく、更に何とどれだけ話しても無料で通話できるらしいではないですか!スマホなんて使えるかな、ましてやカミさんが…と思いましたが、通話とメールしかしないから絶対1ギガに収まると思う、などと言うし、4月からMNPが無料になるらしいので、楽天モバイルにしてみることに決定しました。何か電波の届きが悪いとか評判が良くない部分もあるけど、まあ何とかなるっしょ、程度の軽い気持ちで。

そしてプリペイドの有効期限がきれる5月、初めて auショップに行きMNPの手続きをしました。MNPは初体験で少し緊張気味でしたが、あっけないほどスムースに、逆に少しは引き止めてよ、ぐらいに全く引き止められずに手続きは終わり、MNP番号の紙をもらって店をあとにしました。
 スマホも買わなくちゃなので何となく rakuten HAND が良いかなと思っていたのですが、品切れで買えず。仕方がないので次に安い OPPO A73 という機種にしてみました。メーカーとか全然聞いたことないんですけどとりあえず。

2021年の5/14(金)にRakuten UN-LIMIT VIの2回線とスマホ2台を web で申し込みをしました。支払いのクレカ情報の登録で何故かエラーになって先に進めないのには焦りましたが、ググると結構メジャーなエラーらしく、解決方法の記載したサイトもそこそこ見つかりました。とりあえずは支払いは口座振替を利用する、で登録、スマホ料金は宅配便の代引を利用することで回避しました。あとで支払い方法をクレカに変更できるらしいので(口振だと100円手数料が掛かるし)忘れずに変更しなくてはいけません。2021年の5/16(日)に届きました。こんなに早く届くとは…宅配便のメールで配達されそうだったので、急いで現金を下ろしてきます。
 さらに、必要そうなので、wifiルータもアマゾンで3千円ちょいのやつを購入しました。これは19日(水)に届きました。で、23日(日)の朝からセッティング。ADSLモデムから付属の短いLANケーブルで接続して、出口に今までのLANケーブルを接続。電源に少し苦労したけど何とかなり、初期設定のままでセキュリティもかけられていて、設定は超簡単です。

最初の1回線は1GBまで無料、3GBまで980円+税で、2回線め以降は無料は無く、3GBまで980円+税なので、最初に外出の少ないカミさんのMNP転入手続きをしました。そして初期設定をしました。ものすごい苦労しました。eSIM契約なので、QRコードを読んでSIM情報をダウンロードする必要があるのですが、なかなか読み取れない。何回もやってGoogleレンズとかもインスコして何か良く分からないけど出来ました。何故できたのかは不明です。その後、通常の電話はかけられたけど、楽天Linkアプリの初期設定の番号入力から進めず。日本語入力もできず。

とりあえずそのまま自分のスマホの初期設定をします。ぷりの残高が千円ちょいあるのでどうしようかと思いましたが、休出の5/27(木)にやり始めてみたら、MNP番号の有効期限が切れてるエラーに!急いでまた auショップに行き、番号の再取得を行ないました。今回もスムーズです。事務所に戻って続きをします。最初の申し込みからか?とか不安がありましたが、番号の再入力画面があって、再度入力するだけで済んで良かったです。

割りとスムーズにコトは運んだ感じです。eSIMのQRコード読み込みは実は少し遠めで写すことで読み取れました。なんとそれだけなのか?本当にそれだけなのだろうか?…
日本語入力は、playストアというところでGboardというGoogleキーボードアプリを更新することで解決しました。楽天Linkも同様に更新することで解決しました。電話帳は手入力しました途中まで。とても疲れました。(2021/6記)

携帯電話(さよなら楽天モバイル)

楽天モバイルの三木谷社長が会見で「ぶっちゃけ、0円でずっと使われても困る」と発言したのが2022年5月13日。1回線目のみ1GBまで無料だったものが、1,078円に値上げをしました。

うちでは自分のスマホ用、嫁のスマホ用、家の wifi 用、と3回線を楽天モバイルで利用していましたが、すでに wifi 用は mineo のマイピタに変更していたため、三木谷社長の会見のときは、スマホ用2回線が楽天モバイルで、そのうち嫁用が0円で運用をし、自分は3GBまで使用する1,078円で利用していました。

楽天Link を使えば通話やSMSが無料なので、このまま残っても良いかとも思いましたが、他にどのようなサービスがあるのか、この機会に一応調べてみることにしました。夫婦ともに wifi を使うことが多く、データ通信量は1~3GB、通話は月30分もせず、SMSは数10件程度です。
気になったところは、日本通信の合理的290、HISモバイル、イオンモバイル、POVO2.0、ロケットモバイルなどでした。

で、結局日本通信にしました。初期費用の3,300円を抑えるため、yahooショッピングの半額クーポンを使ったり、楽天市場のポイントアップキャンペーンを利用したりしてスターターパックを購入しました。
自分は7月に楽天モバイルにMNPの予約番号を出してもらって7末くらいに日本通信に転出しました。昼や夕方は激遅らしいですが、ほぼ wifi を利用しているため、あまり実感していません。

ADSL終了

終了の通知がきた!

ずっと家のインターネット回線として使ってきた hi-ho の ADSLサービスですが、2021年9月をもって終了する旨の書類が郵送されてきました。あーそうか、いよいよか、思えば2000年くらいからずっと使い続けてきたなー、ダイヤルアップから切り替えたときは速さと安定性と定額常時接続に感動したなー、などと感慨に浸っている暇はほぼ無く、じゃあどうしましょうか、と検討に入りました。

候補を検討!

候補として、光回線のNURO光、楽天ひかり、auひかり、モバイルの WiMAX 、楽天モバイルでテザリングを考えました。NUROは安いので第一候補だったのですが、対応地域ではないので除外(残念)、auひかり は高めなので除外、楽天ひかりは1年無料は大きいのですがそのあとは高めなので除外、WiMAX も高めなので除外、というわけで楽天モバイルの Rakuten UN-LIMIT VI でテザリングを考えました。スマホでのテザリングは耐久性や操作性に不安を感じたので、キャンペーンで無料でもらえる楽天モバイルの WiFi Pocket 2B がパソコン(Windows10)にも接続できそうな口コミをネットで見たので、チャレンジしてみることにしました(だめなら解約して別の手段を考えようということで)。

楽天モバイルへ!

というわけで、2021年9月の始めごろに回線とモバイルWifiルータをセットで申し込みました。2、3日くらいで届いたので、早速次の休日にセッティング。今回はスマホの初期設定と違ってあっけなく完了しました。
スマホは WiFi で通信できているようです。

そして懸案の PC接続。Pocket 2B をUSBケーブルで PC に接続します。ネットの口コミでは自動でドライバがインストールされるとありましたが、そのような様子はありません。仕方が無いのでエクスプローラでUSBのドライブ内を見てみて、それっぽい AutoRun.exe を実行してみました。するとドライバがインストールされたっぽいので試してみると、PCでweb閲覧やメールの送受信が出来て万々歳でした。充電もされているようだし、しばらくこれで様子をみることにします。
そしてADSLが使えなければ固定電話も用無しなので、NTTとの契約も解除しました。(2021/10記)

mineoへ!

うちは楽天回線とauのパートナー回線を行ったり来たりしていて、どちらかと言うとパートナー回線の方が多く繋がっている場所です。au回線を1ヶ月に5ギガ使うと低速1Mbpsに制限されてしまうのですが、制限されるとカミさんがスマホでYouTube(解像度は抑えてますが)、自分がPCでテザリングで使っていると、結構ストレスになったりしますが、今のところは耐えてます。(2022/1記)

が、ふと見た5ちゃん情報で、mineo なるMVNO事業者にマイピタなるサービスがあり、これに パケット放題 Plus というオプションを付けると固定替わり運用ができそう、ということが分かってきました。楽天WifiのストレスがMAXに近づいていたので、すぐに試しの申し込みをすることにしました。
高速通信できるデータ量が 1、5、10、20GBから選べるので、まずは20GBを申し込んでみました。高速通信を使わない節約モードという機能があり、これをオンにすると1.5Mbps のスピードで使うこともできます。家の Wifi+PCテザリングで大体月に40GBほど使うくらいだったので、半分くらい高速で使えれば十分かな、という判断でした。これで月に1,925円の支払いとなり、楽天モバイルの月3,278円から1,000円以上の節約になりました!

これで1月ほど様子を見て節約モードをオンにしたりオフにしたりして色々試してみました。そして、基本的に節約モードの1.5Mbpsで、普段使いには問題が無いことが分かってきました。どうもバーストという通信開始時に短時間、数秒程度3~4Mbpsで通信できる機能が付いているらしく、このおかげかweb閲覧などはほぼほぼストレスなく行えました。(一部重いサイトはやはり遅いですが…)
という訳で、翌月からは高速通信1GBのコースに変更しました。これで、月に支払いは880円+385円(パケット放題 Plus)で計1,265円となり、さらなる節約とあいなりました!
実際の使用感ですが、やはり一部の重いサイトを除いてはほぼほぼ快適に使えてます。また、アプリのアップデートなど必要なときだけ節約をオフにして高速通信してますので、最初の月の20GB弱があまり減らないのも安心です。(2022/7記)

エアコン

2月のとある朝、エアコンがリモコンに何も反応しなくなっていることに気付きました。困りました…。今日は比較的暖かいので良いのですが、まだまだ寒い日も続くことでしょう。
そこでまずは、リモコンの電池を交換してみました。だめでした。
次に、Webサイトで検索して見つけた「コンセントを抜いてしばらく待ち、再度さしてみる」という技を試してみました。だめでした。
今度は取扱説明書に書いてあった(順番逆な気もしますが)「リセットボタンを押してみる」、「フィルターを掃除してみる」を試してみました。だめでした。

購入してから6年半。保証期間は冷凍サイクルというよく分からないものも含めて過ぎています。修理にいくら位掛かるのだろう…買いなおした方が安いかも…などと考えつつ、昼ご飯食べに行こうと玄関まで行って、見つけました。エアコン用コンセントのブレーカーが落ちていることに!うぅ、これだったのかあ、と、ひとしきり感慨深げに落ちているスイッチを見上げたあと、ブレーカーを入れてリモコンのスイッチを押すと…暖かな空気が出てきました。あぁ、ぬくい。今日はそれほど寒くないけど、ぬくい~。
というわけで1時間近く悩みましたが、おかげで久しぶりに内部の掃除もできたことですし、リモコンの表示も濃くなって見やすくなったことですし、ブレーカーの存在を再認識できたことですし、何はともあれ良かった良かったです。と言いますか、すぐに気付けよ、自分!

PCモニター

かなりの長い間、パソコンの画像を映し続けてくれたソニーのCPD-G200、ようやく引退の時期が来たようです。
思えば当時の17インチディスプレー(CRT)は高かった。それに重かった。ですが、人とのI/O関連は高くても良いものを、ということで、キヨミズの舞台から飛び降りる思いで購入した記憶があります。
購入当時はその広大な画面にとまどいつつも便利に使っていました。いつしか液晶全盛の時代になっても、我関せずに鮮明に画像を表示してくれ続けていました。東日本大震災でも、筐体のプラスチック部分の一部が壊れましたが、何とか画像は普通に映していました。

ですが、段々と黄色っぽい画面になるときがあったり、画面の左側が暗くなったり(特にパソコンの起動直後は見えないほど暗い)、ちらつきが目立ってきたりと、目に悪そうな不具合が出てきました。
そこで液晶ディスプレーへの交換を検討し始めました。調べてみると、TN とか IPS とか液晶パネルにも色々な種類があることが分かってきました。特に動きの激しいゲームなどをやるわけでもなく、正面から見て画面のすみまでちゃんと表示されてれば良し、で、目に優しめな感じで価格の安いもの(コレが最重要項目)を優先して、最終的に三菱のRDT232WX、DELLのU2311H、LG電子のE2370Vに絞りました。DELLはノートPCで痛い目にあってるのでパスして、国産の三菱にしようかとも思ったのですが、付属のスピーカーは必要ないしで、少しでも価格の安いE2370Vにしました。
アマゾンのオンラインショップで購入しました。注文のポチ後の翌々日に到着しました。早速パソコンに接続して写ることを確認し、地震対策で机にひもでくくりつけて、解像度や明るさを調整(明るさは0~100まで変更できますが、0でもまだ明るめです)し、1時間くらいで作業が完了しました。
ふ~、思ったより順調です。ドット欠けなどもないし視野角もTNパネルよりは充分にあるし普通に写るしで、まあ満足です。
ところで、ソニーのCRTディスプレーの破棄をどうしようかと市役所に相談してみますと、それはメーカーで引き取るとのこと。早速ソニーのサイトを見てみると、リサイクル料がなんと4,200円とのこと!エ?結構高いのね。中古引取りのお店で処理してもらうことも考えたのですが、面倒くさいので結局依頼することにしました。
 Web上で依頼のポチをしたら、翌々日にゆうパックの書類が郵送されてきました。すぐに郵便局に連絡すると、その日の夕方には引き取りに来て持っていってしまいました。
 思えば長いことお世話になったものです。単なるモノなのですが、何かペットが亡くなったときのような悲しい気分になりました。ありがとう、CPD-G200。リサイクルされて世の中のお役に立てればうれしいな、と思っています。

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